運営者情報

こんにちは。Synchronicityっていう会社は代表取締役が2人います。それがリョースケとショータロです。2人で会社を経営しています。そんな2人の簡単な自己紹介を出来ればなと思っております。これを見れば何となーく人となり見えてくると思いますので、興味のある方はご覧下さい。

 

渡辺亮介

渡辺亮介 

ものすごい調子乗ってますねこの写真。なんかムカつきますが、普段はもっとふざけてます。

 

<幼少期>

えー記憶が曖昧ですので、母曰く、、、

山口県は美祢市という田舎でオギャーと生まれます。とにかく素直で明るい子。出掛けるのが大好きで旅行になると「明日何するの??」と、死ぬほど目をキラキラさせていたそうな。

フワフワの布団が大好き。それさえあれば何もいらない、というくらい愛していました。出掛ける時にはお気に入りのタオルケットを少し切り取って、それを渡していれば黙っていたそうな。手の掛からない、良い子です。

仮面ライダーやヒーロー物が大好きで、司令官も大好き。これを見て目立つってカッコイイと勘違いし、目立ちがり屋が誕生。とともに漠然と社長っていう存在に憧れを抱き始める。

 

<少年期(小学〜高校)>

ワンパクで遊んでましたね。クラブ活動はサッカー部とバスケ部に入りました。とにかく田舎で自然しか遊び相手がいないので、生まれつきのスーパーアウトドアです。運動会が大好きで、組体操では櫓の一番上に立ちたがり、騎馬戦やリレーでアドレナリン全開で楽しんでました。

次第に目立つ方向性を間違え始め、素行がヨロシクなくなります。名前を書けば受かる地元の工業高校に進学。自堕落な学生生活を送ってしまい何度か停学処分を受け、高校2年時には無期停学処分を受けてしまうのです。あちゃーです。その時に、今の時間を有意義に使うようにと恩師よりオーストラリアでのホームステイを紹介され、1か月間現地シドニーに行くチャンスを得ます。いやー。シドニーで見たもの聞いたもの話してくれた人、全てが刺激的でした。この海外での生活を通し、学ぶ事の意義や重要性を肌で感じ、工業高校から就職という通常のレールから外れ、一般大学への入学を決意したんです。この出来事が人生のターニングポイントでした。

 

<大学時代>

スーパー馬鹿な僕でしたが、名古屋の大学に無事合格しました。山口よりは全然都会の街であった名古屋に興奮しましたね。

大学では色々な経験をさせてもらいました。シドニーでの経験もあったため、国際系の学部に進学したこともあり、積極的に海外に行ったり留学生と交流したりしました。まずはアイスランドに国際ボランティアへ参加。1ヶ月間のキャンプ生活や野宿、ヒッチハイクなどを行き当たりばったりで大変でしたが大いに楽しみました。仲良くなったフランスからの留学生に会いに行くために、3ヶ月間の南仏とヨーロッパ滞在しました。その間ホテルに一度も泊まることもなく、色々な人の家を転々としていました。

高校時代アホ過ぎた僕でしたが、アホもそれなりに頑張って成績を下位10人から上位3人にあげることが出来たのでした。やれば出来るやん俺って感じた瞬間です。就職は、当時約500倍の倍率があると言われていた旅行代理店グループの東京法人営業の会社に内定をもらい進むことを決意しました。やったー。奇跡でした、ただの運ですね。内定者は僕以外地方で知らない大学の人はいなかったので、なんだこの場違い感と驚きました。

 

<社会人〜サラリーマン時代〜>

そんなことで東京に引っ越しした僕です。就職した会社の入社式、つまり社会人1日目から異常な違和感に苛まれるのです。この経験が後の起業に繋がります。詳細は後ほど。

入社した旅行代理店では、東京を拠点に旅の法人営業、旅の企画~添乗という0~100まで旅行に関わる業務を3年半経験しました。会社の成績優秀者を連れて行く報酬旅行、取引先の社長達を引き連れた招待旅行など、高客単価で高満足度を求められる旅行案件を中心に、専門学校での海外研修や特別教員としての講義を2年間行ったり、被災した地方自治体と企業と欧州の有名サッカークラブと連携した活性化事業などを行いました。入社3年目には、会社グループ全体の新入社員向け若手講師として1,200名の新入社員の教育指導にも携わりました。3年目にもなると、少し偉そうに指導とか出来るんですね。こんなアホな僕でいいのかと思っていましたが。笑

新卒から退職まで突っ走りましたが、一言でこの期間を表すと「めっちゃ楽しかった」です。就職前には業界自体がブラック気質だと噂やボロ雑巾のように使い倒され、自分の好きなように仕事が出来ない社畜、なんて噂もありましたが、良い意味で期待を裏切られました。仕事も人間関係も充実した中で思い切り自由に仕事をさせてもらい、社内賞をいくつか受賞することが出来ました。

ただ、不満点が0だった訳ではありません。例えば「人事評価と報酬」です。いわゆる大手の日本古来企業なので完全年功序列です。どれだけ若手が頑張って稼いでも給与に反映されませんし、飛び級出世みたいなものもありません。キャリアステップはほとんど見えていて、後何年で大体ここに行ってこの役職になって、、、みたいな将来が見えちゃう訳です。加えて仕事中には気にならないのですが、飲み会などになると愚痴や噂話ばかり、、、、「夢や未来、仕事のワクワクした話しはほとんど皆無」です。つまり目の前の仕事に追われ、自分が人生をかけて何をしたいか、という根本的な目標や夢がない人が圧倒的に多かったのです。

社会人初日に感じた違和感や、社会人生活を通して「起業したい!」という想いが強くなりました。もっと詳しい内容は「【死ぬまでにしたいこと】私が起業した理由」をご覧下さい。

 

<社会人〜起業し肩書きは社長に〜>

引き寄せの法則って本当にあるもので、起業したいなーという想いで毎日を過ごし行動してると、その手助けをしてくれる人が続々と集まります。あれやこれやで、出資をしてくれる社長に出会い会社を興すことになりました。最初に立ち上げた会社は「株式会社BUCKET LIST」です。

社名の由来は日本語で「死ぬまでにしたいこと」。英語でバケツを蹴る(kick the bucket)は死ぬ、という意味なんです実は。”起業する”ということも死ぬまでにしたいことの一つでしたし、この気持ちを忘れることなく持ち続けたいっていうことで名付けました。

仕事は何をしたかと言いますと、静岡県にある伊豆半島の自治体さんとの連携による地域商社活動を中心事業としていました。簡単にいうと国から地方創生の助成金をもらい、観光振興や食の流通、移住促進などのお手伝いです。他にもIT分野でのSEOコンサルティング業務を行ったり、 このメディアサイトを製作して運営を行ったり、旅行情報発信・ネット販売及び現地と日本のハワイイベントの集客業務などを主導していました。

 

<社会人〜そして新たな挑戦〜>

そんな中で、今の会社の共同代表である蟹江翔太朗と会うようになりお互いのビジョンや将来叶えたい夢など語り合っていました。実はこの蟹江翔太朗という男と僕、同じ大学なんですね。たまに授業で会っていたりしたのですが、彼は非常に優秀で大学初の留学プログラムに挑戦したり海外でインターンシップを行ったりと、僕の手が届くように人ではなかったし、そんなに接点もなかったのであまり話したことはありませんでした。

やりたいことやビジョンがお互いマッチし、一緒に事業をやりたいねー!っと話していたらあれよあれよと話しが進み、3か月弱で今の会社(Synchronicity株式会社)を立ち上げることになりました。僕にはないスキルや感覚を持っている彼と一緒に事業を推し進められること、誇りに思っています。パートナーというのは、仲良しこよしだけではダメで、お互いの意見をしっかり述べ合い尊重し、違うと思えば主張する、そんな対等な関係であるべきだと思っています。それに加え、「自分より確実に優秀な人であること」が重要だと思います。彼はそうなので僕は心強い限りです。笑

これから進めていく事業内容について、全貌ではありませんがこちらの記事「死ぬまでにしたいことシェア%実現サービスを始動します」をご覧下さい。

肩書きだけは代表になって毎日仕事するようになり感じたのは、これまでは自分の実力ではなく、大きな会社の看板に支えられていただけなんだということ。それなりに営業することには自信はありましたし、クライアントから信頼を獲得することは得意な方だと自覚していましたが、看板がなくなった途端、そんな簡単にはいかないものなんですね。言い訳もできず、責任も全て自分に返ってきて、助けてくれる味方も少なくなり、仕事がなければ生きていけない、中々ヒリヒリする日々を過ごしました。でも起業して良かったと心から思います。それは、誰からも「これをやれ!」っと指示されることなく、「これをやりたいからやる!」っと自分の意思で仕事を生み出すことが出来るからです。

MUSTではなくWANT、これすごく大事です。

未来は誰にも分かりません。でも後悔はしたくない、今を最高に楽しみたい、今よりもっと楽しい未来を最高の仲間と創っていきたい、そんな想いでこれからも挑戦に次ぐ挑戦する人生にしていきます!!

少しでも共感する内容や質問、文句(笑)があればいつでも下記連絡先にご連絡下さい♬
ryosuke@scnc.co.jp

 

蟹江翔太朗

 

<幼少期>

愛知県の海部郡(あまぐんと読みます)の蟹江町に生まれました。蟹江町に生まれ育った蟹江さんなので色んな方からよく「由緒ある家庭なの?」とか「町に不動産を沢山持ってるの?」とか「初代町長の末裔なの?」とか色々聞かれますが、全く知りません!(笑)

僕はあまり覚えていませんが、幼少ながらCHAGE and ASKAのyah yah yahをよく歌っていたそうです(笑)

 

<小学校〜中学校時代>

気付いたら柔道をやっていました。始めた頃は全く勝てず、練習しても全然強くなれないので、いつも「辞めたい」と思っていました。2年生か3年生の時だったと思いますが、団体戦で僕が相手選手の背負い投げで華麗に投げられ、チームも負けてしまった時に両親に物凄く叱られたのを覚えています。ただ、当の本人(僕のことです)は負けてもあまり悔しがらず、試合でメダルを取れないので参加賞としてもらう文房具で落書きしたり、試合で負けた後に柔道着の帯で縄跳びをしていたので、それを見ていた両親は情けなかったと言っていました。

球技を中心にスポーツが全くダメだったので、小学校のクラブ活動で選んだのは「漫画クラブ(文字通り漫画を書くクラブ活動)」や「なつかしクラブ(お手玉やけん玉など、日本の昔のおもちゃで遊ぶクラブ)」。ちょうどあの頃はポケモンとても流行っていましたが、何のイラストも見ずに151匹のポケモンを書くことができたことがその時の唯一の自慢。それと、ミッキーマウスを描くのも異様に上手でした!笑

そんな僕に転機が訪れたのが小学校4年生の時。いや、柴犬のゆう君が蟹江家に来てからと言った方がいいかも知れません。ちなみに小学生の時はかなり気弱な少年だったので、犬を飼うのも最初は大反対でした。当時は歩いて10分くらいの隣町に従兄弟の家があったのですが、従兄弟の家に行く道に犬を飼っている家が多く、犬に吠えられるのが怖くて中々従兄弟の家に行けない様な少年でした。そんな犬嫌い(というより犬が怖い)少年が何故かペットショップで見た柴犬に愛着を持ち、命名権を得るために買値の半分を僕が出す形で蟹江家に柴犬のゆう君がやってきました。ゆう君が来てから何故か柔道の試合で勝てる様になり、それまで1回戦ボーイ(1回戦で負けるという意)だった少年が小学5年生の時に地区大会で優勝することができました。2016年に亡くなってしまいましたが、今でも柴犬ゆう君との出会いは僕の人生の大きな転機で、彼との出会いや一緒に過ごした時間にとても感謝しています。

 

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